エイゼンシュテインとスターリン時代(2)
エイゼンシュテインと仲間のグレゴリー・アレクサンドロフ(助監督)、エドゥアルド・ティッセ(撮影)は、1929年から3年間の長期にわたって、ヨーロッパ各国やアメリカ、メキシコを歴訪しています。アメリカではウォルト・ディズニーやチャーリー・チャップリンと親交を結んでいます。
アメリカの悲劇
これは作られなかった映画です。
アメリカに渡ったエイゼンシュテインは、パラマウントと契約して映画を作ることになります。パラマウント側が持ちかけたのは、セオドア・ドライサーの「アメリカの悲劇」の映画化でした。エイゼンシュテインの書いた脚本を読んだドライサーは喜んだらしいですが、パラマウントは難色を示します。そもそも原作はアメリカの病理をえぐる問題作ですし、それをソ連から来た共産主義者が映画化するという時点で、かなり覚悟がいる企画だったと思うのですが、脚本を読んだパラマウント側は恐れをなしてしまいました。結局、エイゼンシュテインは契約を打ち切られ、この企画はボツになってしまいます。
のちにこの原作は、ジョージ・スティーヴンスによって「陽のあたる場所」(1951年)として映画化されアカデミー賞を獲得しました。
メキシコの嵐(1933年)メキシコ万歳(1979年)
この映画は撮影が中断され、エイゼンシュテインの手では完成されられませんでした。
「アメリカの悲劇」の企画が潰れた後、エイゼンシュテインは作家のアプトン・シンクレア(「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の原作者)の後援で映画制作をすることになりメキシコに渡ります。
スタッフはエイゼンシュテインとアレクサンドロフ、ティッセの三人だけ。出演者は現地の人々。セットを使わないオールロケです。
撮影に17ヶ月を費やしたところで、シンクレアから製作中止を告げられます。完全に予算オーバーでした。肝心のメキシコ革命のパートを撮影できないままに中止となってしまいます。アメリカ再入国の許可も降りず、シンクレアに送ってあった撮影済みのフィルムをアメリカに残したまま、エイゼンシュテインはソ連へ帰国することになりました。
フィルムは、エイゼンシュテインの元には戻ってきませんでした。アメリカの映画製作のシステムに無知だったエイゼンシュテインは、編集権は当然監督にあるものと思い込んでいましたが、フィルムはすでにシンクレアの物になっていました。シンクレアは資金回収のため、フィルムを切り売りしてしまいます。そして、適当に編集された「メキシコの嵐」が公開されました。このフィルムからは他にも「メキシコのエイゼンシュテイン」「タイム・イン・ザ・サン」などが生まれています。
ニューヨーク近代美術館に眠っていたネガが、1972年になってようやくソ連に返還されます。唯一生き残っていたアレクサンドロフによって編集され、1979年に「メキシコ万歳」として公開されました。
メキシコの文化や風習への憧憬に満ちたディスカバリーチャンネルのような映像と、農民が地主に惨殺されるというエイゼンシュテインらしいミニストーリーで構成されたオムニバス形式の映画です。ティッセの構図の取り方は本当に上手いなぁと感心させられます。
ベージン草原
この映画も撮影中止の憂き目にあい、しかもフィルムは現存していません。
1932年になって、ソ連に帰国したエイゼンシュテインを待っていたのは、「社会主義リアリズム」という検閲地獄でした。
社会主義リアリズムとは、社会主義の素晴らしさを分かりやすい平易な表現で一般大衆に知らしめよ、というスターリンの方針です。この方針に従わない芸術家は容赦なく粛清されました。エイゼンシュテインの師だった舞台演出家のメイエルホリドも、散々拷問された挙句に銃殺刑に処されています。
しかし、この頃作られた映画は明るく楽しいコメディが多かったようです。要は大衆が、自分たちは幸福な社会に生きていると錯覚できるような作品が、求められていたのです。プロパガンダとは、いつの時代もそんなものなのでしょう。
そんな状況の中で、エイゼンシュテインは「ベージン草原」の撮影に取り掛かります。富農の父親の犯罪を告発した少年が殺されるという、子殺しと階級闘争を描いた映画だったそうです。
この頃からエイゼンシュテインは体調を崩して入院するようになり、撮影は遅れに遅れ、2年ほど経ってから当局は制作中止を通告しました。内容に対しても非難が浴びせられました。農村の現実を描いておらず形式主義に陥っているとして、自己批判することを余儀なくされます。理屈っぽいインテリのエイゼンシュテインは、難しい局面に立たされました。
フィルムはお蔵入りとなり、第二次大戦の戦火で焼失してしまいました。かろうじて残ったネガの断片から作られたスチール写真だけが今も残っています。
エイゼンシュテインの映画人生はもう終わったかに見えましたが、まだ意欲は衰えていませんでした。社会主義リアリズムの方針に沿いながら自分の表現を追求できる道を、模索し続けます。
そして、愛国的な戦意高揚映画「アレクサンドル・ネフスキー」で復活することになるのです。
続く……。