エイゼンシュテインとスターリン時代(1)
レーニン時代のソ連は映画制作者にとって理想的な環境でした。映画が国有化されたため制作資金の調達に苦労することもなく、内容に対しても口うるさく介入してきませんでした。そんな恵まれた環境の中で、ソ連映画は目覚ましい進歩を遂げます。
当時のソ連で最も人気があった映画はアメリカの活劇でした。その次がドイツ表現主義の幻想的な映画で、まだまだ未成熟だったソ連映画は人気がありませんでした。ソ連の映画人たちは、アメリカ映画の人気の秘密を探るべく徹底的に研究します。
アメリカの映画監督D・W・グリフィスは「国民の創生」(1915年)においてクロスカッティング(並行モンタージュ)という編集技法を用いています。窮地に陥った人物のカットと、救援に駆けつける人物のカットを交互に繋ぎ合わせることによって、映画独特の臨場感が生み出されています。
ソ連の映画人はこういったアメリカ映画の研究から、モンタージュの技法を見つけ出していきます。そんな中で、レフ・クレショフによってある実験が行われました。1922年に作られたこの実験フィルムは「クレショフ効果」と呼ばれています。人物の顔とスープの皿を交互に繋ぎ合わせただけですが、これを見た観客は「空腹」という意味を読み取りました。同じ人物のカットと棺に入った子供のカットを繋ぎ合わせると「悲しみ」を読み取りました。言葉も演技もなしに、編集だけでメッセージを伝えることができたのです。これが知的モンタージュ(弁証法的モンタージュ)です。
こうして生まれた様々な映画技法を、モンタージュ理論として体系化したのがセルゲイ・エイゼンシュテインです。言わば、映画の作り方の最初の教科書を書いた人であるわけです。エイゼンシュテインは映画仲間たちと議論を戦わせながら、モンタージュ理論を完成させていきました。そして、その実践である「戦艦ポチョムキン」は世界に衝撃をもって迎えられることになります。
「戦艦ポチョムキン」の「オデッサの階段」と呼ばれるこのシーンによって、ソ連映画は絶頂期を迎えることになります。細いカットが複雑に絡み合い、まるでその場にいるかのような臨場感があります。映画の作り方が根本的に変わってしまった瞬間です。
しかし、ソ連映画はこの後衰退して行くことになります。スターリンの独裁体制が確立し、芸術の検閲が始まったからです。スターリンは「社会主義リアリズム」という美名のもとに、意に沿わない芸術家たちを次々と粛清していきます。実験的前衛的な映画はご法度になりました。
エイゼンシュテインも批判に晒されます。形式主義的であり、社会主義の真実を描いていないとして修正を迫られます。エイゼンシュテインはその度に自己批判を繰り返して党の方針を受け入れ、諦めずに映画を作り続けました。
エイゼンシュテインの映画は、大きく前期と後期に分けられます。前期はマルクス・レーニン主義の思想が色濃いサイレント映画。プロの役者を使わずに素人を起用した群像劇で、記録映画的な雰囲気を持っています。後期にはトーキー映画に移行しますが、映画を完成させられない長い不遇の時代が訪れます。何本もの映画が挫折した後に、民族主義的愛国的な史劇に活路を見出していきます。プロの役者を使い、スケールの大きいロシアの英雄物語を2本作ります。
ストライキ(1925年)
長編第1作。工場のストライキが暴動に発展して、軍隊によって鎮圧されるまでが描かれます。名カメラマンのエデゥアルド・ティッセとのコンビはこの時から。構図の取り方がとても上手く、記憶に残るショットがいくつもあります。虐殺シーンに牛を屠殺する映像が挟まれる知的モンタージュが有名。
戦艦ポチョムキン(1925年)
最初のシナリオ「1905年」は日露戦争から始まる長大な物語でしたが、エイゼンシュテインはその中から戦艦ポチョムキンの水兵の反乱を切り取って映画化しました。オデッサの惨劇はシナリオにはなく、エイゼンシュテインによって後から付け足されたものです。監督のこのインスピレーションが「映画史上最も有名な6分間」を生み出しました。
十月(1928年)
レーニン率いるボルシェビキによる十月革命を描いた大作。レーニン役はそっくりさんの素人が演じています。ペトログラードの市街を使った大規模な戦闘は大迫力。
しかし、この映画からスターリンの横槍が入り始めます。革命の指導者の一人であるトロツキーは既にスターリンの政敵となっていたため、トロツキーの登場シーンをほぼ全て削除しなければならなくなりました。レーニンの演説もかなり削られたらしく、2時間半の予定だった映画は最終的に1時間40分になってしまいました。
頻出する知的モンタージュも、形式的だとして批判を浴びることになります。エイゼンシュテインは、よりオーソドックスな映画作りをしなければならなくなっていきます。
全線〜古きものと新しきもの〜(1929年)
貧苦にあえぐ農村が、コルホーズ(集団農場)による近代的な農業によって再生していく牧歌的な物語です。エイゼンシュテイン最後のサイレント映画。非常にプロパガンダ臭が強いので辟易してしまいますが、のんびり映像を眺めましょう。
これまで群像劇を描いてきたエイゼンシュテインが初めて主人公として一人の農婦を登場させますが、やはり役者ではなく本物の農婦を使っています。
収穫のシーンでは、草刈機の刃が振動するクローズアップが差し挟まれますが、これは音を視覚的に聴かせるという、サイレント映画ならではのモンタージュです。
エイゼンシュテインは党の意向に沿った映画を作ったつもりでしたが、この映画も現実を描いていないとして批判され、ラストシーンを改変することになりました。
この映画の撮影中に、日本から歌舞伎の一座がやってきます。歌舞伎の過度に様式的な表現はエイゼンシュテインに大きな衝撃を与え、映画スタイルを大きく変える要因になります。
そして、この映画が完成するとエイゼンシュテインはトーキーの研究のために欧米旅行に旅立ちます。
続く……。