人を殺すことの胸糞悪さ「アメリカン・スナイパー」

アメリカン・スナイパー American Sniper

イラク戦争で160人を殺した海軍特殊部隊の伝説的スナイパー、クリス・カイルの自伝の映画化。
戦場における兵士たちの精神的負担や女子供まで殺されるという悲惨さを描きつつも、イラク戦争そのものへの批判を含まなかったため、愛国映画かそれとも反戦映画かと、様々な議論を呼びました。

イーストウッドは共和党支持の保守派でありながら、リベラルな映画ファンからも愛されている監督です。それは彼の人種や民族に対する公平な視点や、戦争に巻き込まれた個人の悲劇を描いてきたからでしょう。
しかし、これまでのイーストウッドの映画における戦争と個人の関わりと、この映画が決定的に違うのは、主人公が愛国主義者クリス・カイルだという点です。

彼はイラク戦争PTSDを患いながらも、退役後は立ち直って社会復帰しています。より深刻な問題を抱えている仲間たちの手助けをして、社会奉仕活動をしているのです。彼は伝説の英雄という肩書きに恥じない存在になっていきます。
アメリカの保守派が大喜びし、反戦映画を期待したリベラルが肩透かしを食ったのがそこでしょう。反戦映画にするには彼の人生は破滅しなければならなかった。だが現実にはそうはならなかったのです。

クリス・カイルは自著で、戦った相手を「野蛮で卑劣な悪魔」と断言し「もっと多くを殺しておけばよかった」と書いています。バリバリの愛国主義者なんです。仲間を守るという正しい目的のために良いことをしたんだというのが彼の主張です。

しかし、イーストウッドはこの原作の中に、彼が一貫して主張し続けてきた、殺人は胸糞悪いんだという視点をねじ込みました。
クリス・カイルは女子供を含めた民兵を、逡巡しながら射殺していきます。そしてそのことが、次第に彼の心を蝕んでいきます。彼は次第に病んでいき暴力的な人間になっていきます。正しい目的があろうがなかろうが、自分の手で人を殺す気分は最悪なものなんだというイーストウッドの主張は、これまでの映画でもずっと描き続けてきたことです。正しさなんてどうでもいいのです。どんな理由があろうとも、殺人はいつだって嫌なものなのです。それがイーストウッドの映画です。

しかし、クリス・カイルは殺人に負い目を感じているからこそ、自分のやったことは正しかったのだという思いを強めていくことになります。イラク人は野蛮人であると考えれば、自分の心を守ることができるのです。
彼は戦場の悲惨な現実を目の当たりにするたびに、より頑なな愛国者となっていくのです。自分は社会の役に立っているんだと考えることは、心の病を治癒する力があるのですから。

戦争の悲惨さは、愛国心を補強することもあるのです。なぜならそれは、やむなき犠牲だと割り切ることができるから。どんなに辛いことだって、正しい目的があると思い込んでいれば我慢できます。むしろ悲惨であればあるほど、より強い愛国心が芽生えていくのです。

クリス・カイルは戦争によって歪んでいきますが、最終的にはPTSDを乗り越え成長した立派な人間として描かれます。最後のシーンの彼は、明るく朗らかで優しいお父さんとなり、理想的な愛国主義者が完成します。
イーストウッドはクリス・カイル本人に会っていますから、たぶん本当に立派な人だったのでしょう。
それが、反戦映画なのかどうかよくわからないという評価に繋がっていくわけです。
実際この映画は、英雄を正当に評価しているとアメリカの保守派に大絶賛されました。

イーストウッドはこれまで贖罪の映画を撮り続けてきました。その彼が、単純に戦争の英雄を賛美する映画を撮るなどありえないことです。これは、戦争に翻弄された一人の人間として、クリス・カイルを描いた映画なんです。イーストウッド本人の贖罪意識とクリス・カイルの考え方は相入れませんが、そういうことと人間的魅力というのはあまり関係がないのです。

イーストウッドはクリス・カイルに昔の自分を重ねているのかもしれませんね。