ホモソーシャル映画としての「マッドマックス 怒りのデス・ロード」

マッドマックス 怒りのデス・ロード Mad Max Fury Road

 こんなに面白い映画を観たのは久しぶりでした。映画館に6回行き、ネット配信も買いました。立川の爆音上映には2回行ってます。しばらく他の映画が観れなくなるほどどハマりしました。既に色々なことが語り尽くされた感もあるんですが、熱も冷めてきた今頃になってちょっと書きたいことが出てきたので、今の内に公開しておきます。

フェミニズム映画としての評価をよく目にするのですが、それを補足するような形でホモソーシャル映画として読み解いていきたいと思います。ホモソーシャルは、フェミニストが男性中心社会を批判する文脈の中で出てきた言葉ですが、ここでは男視点で肯定的な意味で使いたいと思います。他に適当な言葉が見つからないものですみません。高揚感をもたらす男同士の連帯とか、そんな感じです。

ホモソーシャル要素はアクション映画の中で、今までも存在してきたものですが、それはごく当たり前で無意識的にあったものでした。映画における最も優れたホモソーシャル表現の一つが、サム・ペキンパー監督の「ワイルドバンチ」のラストシーンでしょう。ウィリアム・ホールデンの「行くぞ」の一言で仲間達が立ち上がり死地へと赴いていきます。どこへ行くとも何をするとも言いませんが、全員の気持ちが一つなので言う必要がないのです。その気持ちはただ一つ、「意地を通す」です。何か得るものがあるわけでもなく、自己犠牲精神の発露ですらないのです。ただ意地を通すだけ。そして壮絶な殺し合いの果てに、全員が死んでしまいます。それもとても気持ちよさそうに。これがホモソーシャルの極北です。

マッドマックス」の過去作にもホモソーシャル要素はあったわけですが、「怒りのデス・ロード」が決定的に違う点はウォーボーイズの存在です。映画の前半はウォーボーイズ視点でストーリーが進行していきます。これは今までなかったことです。トーカッターやヒューマンガス側のドラマなんてなかったですから。ニュークスとスリットの関係性や、イモータン・ジョーをスーパースターのように崇める様子など、戦う相手の内実をここまで描いたのは初めてでした。今までは、観客が勝手に妄想する範囲内でしかなかった要素です。そして、決定的な瞬間がモーゾフの特攻死です。彼が「俺を見ろ!」と言って壮絶な戦死を遂げた後、「よく死んだ!」とウォーボーイズが褒め称えた瞬間、少なくない観客が拍手喝采したはずです。ウォーボーイズになりたいと思った人もいるでしょう。これは男の根源的な欲望に訴えかける力強い演出でした。

ジョージ・ミラーは男と女の闘争の物語を作る上で、どちらにも感情移入できるポイントを作りました。それは、誰が観ても楽しい気分になれる娯楽作を作るための絶対条件でした。女性の立場に配慮した物語を作るならば、その逆もまた意識して作らなければなりません。意図してホモソーシャルを魅力的に描いているのです。これは政治的な映画ではなく、娯楽映画なのですから。そしてそれは大成功しました。

もう一つ挙げると、フュリオサというキャラクターの素晴らしさです。過去作でも女戦士は出てきますが、あまり成功しているとは言い難いです。「サンダードーム」のティナ・ターナーなんて大失敗もいいところでしょう。フュリオサはマックスと対等の人間として配置されることで成功しました。二人とも寡黙で笑わず、内面に苦悩を秘めている点でよく似ています。最初は敵対していても、戦いを通してお互いを認め合い、信頼関係を築いていくというやり方は、男同士のブロマンスとして色んな映画の中で嫌というほど再生産されてきたパターンですが、それを男と女でも可能なのだとこの映画は示して見せました。武器将軍の車を狙撃するシーンで、一言も会話せずに通じ合ったあの関係に興奮しない人がいるでしょうか。これは恋愛でも友情でもなく、運命を共にする相棒への信頼なのです。それがこの映画を、この上なく気持ちの良いものにしているのです。

僕のお気に入りのキャラはスリット君です。最後までイモータン・ジョーに忠誠を尽くし、改造インターセプターと共に散っていった彼が、ちゃんとヴァルハラに行けたことを願ってやみません。

 

  

 

 

マッドマックス 怒りのデス・ロード(字幕版)

マッドマックス 怒りのデス・ロード(字幕版)

 

  

マッドマックス 怒りのデス・ロード(吹替版)

マッドマックス 怒りのデス・ロード(吹替版)